論考:人新世の「静かな芸術」 第5回

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第5回 終わりに:「静かな芸術」論

内容紹介

 私達は、人類の活動が、地球の在り方を変えるほどの強大な影響力を持つようになった時代、「人新世」に生きている。急速に発達してきた人間世界は、自然世界に取り囲まれているという現実、さらには両者が互いに関連し合っていることをいつしか忘れてしまった。未曽有の自然災害が絶えない現代こそ、自然世界との連関が意識されるようになった時代でもある。

 強大な自然災害の前に私達が体験するのは、世界の「終わらなさ」である。どれだけ人間世界が崩壊しても、私達は生活し存在し続けなくてはならない。本稿で取り上げるのは、主体無くして世界が永続する時代に対して、どのように向き合うべきかという問題である。

 本稿では、東日本大震災(以下、震災と略記)への応答を示した、園子温監督の映画『ひそひそ星』、アーティスト集団Chim↑Pomによる映像作品《気合100連発》の2作から、人間世界が壊滅してもなお「終わらない」世界における、人間という微々たる存在の在り方について、全5回に渡って探究する。


5,「静かな芸術」論

 第1章では、人間が自然に大きな影響力を持つようになった「人新世」における、自然世界と連関する人間世界という現実をどう考えるかという問題について取り上げた。また、こうした現実に孕む、自然世界の脅威によって壊滅してもなお続いていく世界の「終わらなさ」から、主体の有無を問わず 私達の存在が成立してしまう暴力性について指摘した。

 第2章では、浮遊する主体の拠り所として、「静寂」という存在を取り上げた。「静寂」とは、自然世界がもたらした混乱の後に生じるものである。自然世界に対して人間が極めて過小な存在でしかない「恐怖」を孕んでいるが、受容することで崩壊した世界の中で確かに肉体をもって生きているという実感を、私達にもたらす可能性を秘めている。これを踏まえて、私達はどのように「静寂」を受容できるのかという問題提起を行った。

 第3、4章では東日本大震災(震災)後に訪れた「静寂」に取り囲まれた世界への応答を示した芸術作品として、園子温監督による映画『ひそひそ星』とChim↑Pomによる映像作品《気合100連発》を取り上げた。両作それぞれは、如何にして「静寂」を受容しているか、「静寂」の中でどの様な人間の在り方が示されているのかという、「静寂」への受容アプローチを読み取った。

 両作共に、人間世界と自然世界の混乱後において訪れる「静寂」の中で、微弱たる人間の存在の確かさと救済が示される。「静寂」と“同調”する前者は、「静寂」の中で人間世界の虚飾を剥がしつつ、人間の儚くも同時に永遠性のある確かな存在として描かれている。一方「静寂」に“対立”する後者は、虚構の枠組みの中で震災の後に失った言葉を取り戻すことで、「静寂」に伴う「恐怖」を吸収し、自然との共存空間に立つ人間が、言葉と生きる力を保持する確かな存在として描く。

 このように「静寂」と共鳴した芸術を、私は「静かな芸術」と名付ける。「静かな芸術」は、同調と対立のアプローチをもって、主体無くして終わらない世界の中で、人間存在の過小さという「恐怖」を乗り越え、人間存在の儚さの中にある確かさが示されている。

 本稿では、震災に応答を示した作品として上記2つの作品を取り上げた。しかし震災への応答作品として、ここには取り上げきれない程に多くの試みがなされており、これはそのまま、「静寂」へのアプローチもその分多様に存在しているということでもある。本稿は、「静かな芸術」がもつ多様なアプローチを思索する上で、基盤として繋がることを期待したい。

 「静かな芸術」が指し示すのは、私達は「終わらない」世界に“立たされる”だけではないということである。築き上げてきたものが全て一瞬にしてなくなってしまっても、途端に消え去ってしまうような儚い存在であっても、私達は、自分自身の足で“立つ”ことができるのだから。



【視聴覚資料】

『ひそひそ星』(長編劇映画)、監督;園子温、シオンプロダクション、日本、2016年、100分

『気合100連発』(ビデオ)、Chim↑Pom、日本、2011年、10分30秒

あとがき

 『人新世の静かな芸術-同調と対立のアプローチ―』という論考は、篠原氏による「人新世」論を、芸術の観点からの展開を試みたものです。これは、コロナ禍が始まった1年以上前から構想していたものでした。特段私は、環境問題に対して関心が高いわけではありませんが、自然世界が牙を向けば途端に消えてしまう私達にとって、何か拠り所のようなものを見つけたい、とコロナ禍の中でただ考えていました。自分の抱えている考えを無様でも思うままに吐き出してみたいという想いが、この度、これを書き上げるまでに至ったことは、非常に嬉しく思います。

 執筆に当たって思い出したことは、2011年の3月11日のことでした。電気の通らなくなった信号、止まらない余震、冷たく暗くなった家。電気が復旧した直後にテレビで見た終末的風景は今でも目に焼き付いています。私達がいかに空虚な人間世界で生きているかを強く感じた出来事でもありました。今日を取り巻く終わりの見えないパンデミックもまた、私達の人間世界の空虚さを暴いているように思います。

 こうした震災やパンデミックから思うことは、あの時から今もなお自然世界は、虚飾の中にあるのではないかということです。「美しい」自然だとか、「恐ろしい」自然だとか、「壮大な」自然だとか、そういった言葉とか表現でしか、私達は自然を表す手段を持たない。それらは結局、自然を過剰に小さくしたり、過剰に大きしたりなど歪めてしまう欺瞞なのではないか。自然世界を語る言葉を獲得することが、本稿のもう一つの試みでもありました。他にも掲げていた試みがあったのですが、また長くなってしまうのでこのへんで。

 本稿が、自然災害ないし災害後の崩壊した世界にどのように向き合うのか、誰かの思索の一助となれば幸いです。長々と拙い文章を書き綴ってきましたが、掲載まで協力してくれたツクバ・アート・クリップ運営の皆さま、助言いただいた山口先生、ここまで長い探究に付き合ってくれた方に感謝申し上げます。



高橋茉佑

筑波大学人文・文化学群比較文化学類在籍。先端文化学専攻。近現代美術や身体論など研究しています。無類のホラー映画好き。