論考:人新世の「静かな芸術」 第2回

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第2回 「静寂」の出会いと受容

内容紹介

 私達は、人類の活動が、地球の在り方を変えるほどの強大な影響力を持つようになった時代、「人新世」に生きている。急速に発達してきた人間世界は、自然世界に取り囲まれているという現実、さらには両者が互いに関連し合っていることをいつしか忘れてしまった。未曽有の自然災害が絶えない現代こそ、自然世界との連関が意識されるようになった時代でもある。

 強大な自然災害の前に私達が体験するのは、世界の「終わらなさ」である。どれだけ人間世界が崩壊しても、私達は生活し存在し続けなくてはならない。本稿で取り上げるのは、主体無くして世界が永続する時代に対して、どのように向き合うべきかという問題である。

 本稿では、東日本大震災(以下、震災と略記)への応答を示した、園子温監督の映画『ひそひそ星』、アーティスト集団Chim↑Pomによる映像作品《気合100連発》の2作から、人間世界が壊滅してもなお「終わらない」世界における、人間という微々たる存在の在り方について、全5回に渡って探究する。


2-1、災害の後に訪れる「静寂」

 本題に入る前に、自然世界との連関にある人間世界について確認しよう。篠原は『人新世の哲学』において、「人間の生活空間が「私」や「私たち」のためのものとして安定的に確定されている状態そのものの限界を突き破るところに現れうる空間」(*2)としての人間世界の自覚、つまり時に攻撃的な自然世界との共存空間としての人間世界の自覚は如何にして可能か、という問題提起を行っている。

 篠原の論で重要な鍵となるのは、震災の津波によって瓦礫となった石巻、女川、気仙沼、陸前高田の街並みを映した、川内倫子の写真集『光と影』(2012年)である(作品画像については、以下のサイトより参照のこと。川内倫子「光と影Light and Shadow」、『川内倫子オフィシャルウェブサイト』、2022年2月7日確認、http://rinkokawauchi.com/publications/437/)。

 川内は、人間の生活領域を支えてきた家、街並み、道路が、もはやただの瓦礫と成り果てた静かな世界の中、「自分が風に飛ばされてしまいそうなほどに小さな存在」であるという「恐怖」とともに、「確かに肉体を持っていまここに立っているという実感」を得る(*3)。川内はこの実感を得るために、「静けさ」が必要なのだと感じたという。篠原は、川内の写真に映された崩壊した人間世界から、人間世界の自己完結化の不可能性を見出すとともに、川内が瓦礫の街の中で感じ取った「静かさ(静寂)」に着目している。

 本稿で着目したいのもまた、川内の感じ取った「静寂」の存在である。「静寂」とは何だろうか。以下のように、篠原は「静寂」について分析を行っている。


静寂は、いかなるときに、いかなるところに生じてくるか。…境界が崩れた直後の混沌そのものではなく、混沌が去り、混沌の残骸のようにして瓦礫が散らばるなか、それでもとりあえず歩いて写真を撮ることができる程度には人間が生きていける世界が現れつつあるところに、静寂が生じている。
一度人間世界を飲み込んだ自然がそこから撤退していくところまたも現れてくる世界に、静寂が生じている。自然が暴威をふるうのをやめた後、それでも残る暴威の傷跡のようなものに満たされた世界に静寂が生じている。それは人間世界に刻みつけられた傷であるが、そのときまで客体化され支配の対象とみなされてきた自然がその主体性を回復してきたことの証でもある。(*4)


 つまり「静寂」とは、以下2つの場面において生じるものであるという。1つは、震災といった人間世界と自然世界の境界が崩れた混乱の後に、混乱の痕跡が未だに残る状態であっても、人間が辛うじて生存できる世界が訪れつつある場面である。2つは、津波といった人間世界に侵入した自然の猛威が撤退していく時に、人間世界が猛威の痕跡に満たされる場面である。したがって「静寂」とは、これまで人間の支配の対象でしかなかった自然の「主体性」が、人間世界において復活していることを示す存在なのである。「静寂」は、私達の世界を一瞬にして壊れてしまう、消滅してしまうところに生じている。だからこそ「静寂」は、人間が吹き飛ばされそうな程に過小な存在であることを自覚させる「恐怖」をもたらすのである。

 この「静寂」は、自然世界との共存空間としての人間世界の自覚に当たって、如何なる可能性があるのだろうか。篠原は、以下のように結論付けている。

静寂に身を置くことで、あるいは、静寂を心のなかに抱くことで、みえてくることがある。それは、私たちが二つの世界で生きているということである。すなわち、人間がつくりだす世界と、人間の世界をとりかこむ自然の世界、エコロジカルな世界である。そして、前者の世界はとても脆い。その脆さは、震災やハリケーンのような自然世界で生じた出来事に巻き込まれるときに顕在化する。(*5)


 「静寂」は、私達の世界が一瞬にして崩壊するところに生じている。だからこそ「静寂」は、自然世界に取り囲まれた人間世界の脆弱性を曝け出す。このことから篠原は、「静寂」を身体に心に抱くことは、私達が自然世界との共存空間に肉体をもって立っている実感を獲得する契機であると述べる。

 人間世界と、それを取り囲む自然世界 の2つの世界において、人間が存在している自覚を獲得する可能性そのものである、「静寂」。「静寂」がもたらす、崩壊してもなお続く世界の中で確かに肉体をもって生きているという実感は、浮遊する主体の拠り所ではないのか。私達は、「静寂」に心身を浸す(ここでは「受容する」に置き換えたい)こと が必要である。


2-2、「静寂」を受容するということ

 では、人間世界と自然世界の対立の中で生まれた、「恐怖」を伴う「静寂」に対して、私達はどのような受容ができるのだろうか。「静寂」の受容とは、災害の後に壊れた人間世界に耳をそばだてるということだろうか、それとも佇むことなのだろうか。本稿で、震災に応答を示した芸術作品を取り上げる理由は、「静寂」に取り囲まれた世界を、リアリティをもって表現すると同時に、多様な方法で世界の「静寂」を受容できる寛容さ を持っているからである。

 本稿で取り上げる作品は、園子温監督による自主製作映画『ひそひそ星』と、アーティスト集団Chim↑Pom(チンポム)による映像作品《気合100連発》という、震災後の福島を主題とした2つの映像作品である。両作を、震災の混乱後に訪れる「静寂」に対する応答の観点から、自然世界との連関の中で生きる人間の存在が、如何に表現されているのかを、次回からそれぞれ分析していく。



*2――篠原雅武『人新世の哲学-思弁的実在論以後の「人間の条件」』人文書院、2018年、214頁。

*3――川内倫子「光と影 Light and Shadow」、『川内倫子オフィシャルウェブサイト』、2022年2月7日確認、http://rinkokawauchi.com/publications/437/ 

*4――篠原雅武、前掲書、223-224頁。

*5――同前書、224頁。


高橋茉佑

筑波大学人文・文化学群比較文化学類在籍。先端文化学専攻。近現代美術や身体論など研究しています。無類のホラー映画好き。