論考:人新世の「静かな芸術」 第3回

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第3回 園子温『ひそひそ星』と「静寂」

内容紹介

 私達は、人類の活動が、地球の在り方を変えるほどの強大な影響力を持つようになった時代、「人新世」に生きている。急速に発達してきた人間世界は、自然世界に取り囲まれているという現実、さらには両者が互いに関連し合っていることをいつしか忘れてしまった。未曽有の自然災害が絶えない現代こそ、自然世界との連関が意識されるようになった時代でもある。

 強大な自然災害の前に私達が体験するのは、世界の「終わらなさ」である。どれだけ人間世界が崩壊しても、私達は生活し存在し続けなくてはならない。本稿で取り上げるのは、主体無くして世界が永続する時代に対して、どのように向き合うべきかという問題である。

 本稿では、東日本大震災(以下、震災と略記)への応答を示した、園子温監督の映画『ひそひそ星』、アーティスト集団Chim↑Pomによる映像作品《気合100連発》の2作から、人間世界が壊滅してもなお「終わらない」世界における、人間という微々たる存在の在り方について、全5回に渡って探究する。


3-1、作品・あらすじ紹介

 園子温は、『紀子の食卓』(2006年)や『冷たい熱帯魚』(2011年)、『恋の罪』(2011年)など、家族の虚構性や人間の愛憎といったテーマを、バイオレンスかつエロティックに描くという、過激な作風で知られる映画監督である。しかしながら『ひそひそ星』は、これらの作品と一線を画した作品であり、穏やかで抒情的な作風が特徴的である。本作は、福島県の被災者の人々がエキストラとして出演しており、震災後にほぼ無人となった現地が、架空の荒廃した惑星の情景としてモノクロームで映し出されている。

 本作のテーマは、「人間の記憶や思い出」である。園自身の言葉によれば 、『ひそひそ星』とは「三月十一日のあの日から今に至る我々の記憶と、はるか昔のからの遠い人間の記憶を重ねるファンタジー」(*6)であるという。すなわちこの作品は、忘却されつつある2011年3月11日の震災の記憶を、時間という垣根を超えて再び取り戻すこと、単純化を恐れず言えば、人間の記憶が風化することに抗ったものである。

 『ひそひそ星』のあらすじは以下の通りである。遠い未来、人類の度重なる災害と失敗の繰り返しによって、人間が極度に減少した後に穏やかな均衡が保たれるようになった。その時代では、テレポーテーションが可能となったが、それでもなお居場所を失った人間の「思い出の重みに対して釣り合うだけの手間と時間をかけて届けたい」という要望の下、アンドロイドが長年かけて宇宙の星々を巡り、人間の思い出の品が入った配達物を運び、手渡しで届けている。本作の主人公、鈴木洋子という女型アンドロイドは、配達人の一人として、配達物を淡々と届けている。題名にある「ひそひそ星」とは、「人間だけが住む最後の星」のことであり、その星では人間は「影絵のような存在」として生きている。その星では30デシベル(具体的にはささやき声程度)以上の音をたてると人間が死ぬ恐れがあるため、注意深く音を立てないようにすることが求められている。物語の終盤、鈴木洋子は音を立てないように注意しながら「ひそひそ星」へと配達に向かう(*7)。

3-2、影絵のような人間

 本作において特徴的なのは、影絵のような人間の描写である(本場面は以下の動画を参照のこと。「映画『ひそひそ星』予告編」(PV、YouTube)、【公式】日活MOVIEチャンネル、2016年3月28日公開、1分48秒、https://www.youtube.com/watch?v=xADIJwYjC8s&t=3s)。

 本作に描かれる地球は、終末的な雰囲気の漂う寂れた街をもつ他惑星とは異なり、穏やかな日常生活を送る人々の影が、障子の表面に平面的に映し出されている。障子は長く続く廊下に沿って並んでいる。この廊下状に長く並ぶ影絵のような人間像は、一体何を象徴しているのだろうか。

 園は、『ひそひそ星』制作に当たって書き綴った散文の中で、以下のように書き綴っている。


  今とは永遠に今なのだ。
  一九九一年に夢の島に立っている俺の、
  あの瞬間は、
  二十五年経った、
  今も今なのだ。
  一九九一年の福島も、今なのだ。
  このたった今の瞬間も、百年前も、今なのだ。
  今日が現在だと、みんな理解するけれど、
  明日になるとこのたった今だった今日が、
  まだ現在だとは、理解できない、
  霊に過去なんかない。(*8)


 散文中における「霊」という言葉は、死んだ人間、生きている人間、これから生まれてくる人間という、全ての時間軸における人間のことを指している。過去、現在、未来も全て「今」であることから、あらゆる人間は「過去」に流されることはない。

 過去、現在、未来も全て「今」であるとはどういうことだろうか。これは、フランスの詩人フランソワ・ヴィヨン(Francois Villon;1431-1463?) による、「それにしても昨年の雪はどこへいった?」という一節を基にしているという (*9) 。これは、昨年の雪が跡形もなく消え去ってしまったことへの驚きが表現されたものである。園はこの言葉を援用しつつ、「昨日降った雨も乾き、三か月前に降った雪も消え去った。明日降る雨も、来年降る大雪もまた、今はないし、いつかはまたなくなる」 (*10) とも述べる。

 全てが「今」であり、「今」はないという矛盾は何だろう。園は、いつか全てが消えてしまうという不在性に、存在していたものが消滅したのではなく、今私達が生きている「現在/今」の指標が移動したことで、その存在、事物が“見えなくなった”(存在しなくなった)という永遠性を重ねているのではないだろうか。つまり、園にとってあらゆる存在・事物は、“どこまでも不在”であると同時に、“永遠に存在”し続けているのである。

 園は、いつかは消えてしまう雨と雪に、いつかは皆死んでしまう人間を重ねている。人間を「霊」と表現するのは、生と死の概念の狭間にあって不定形に蠢くという幽霊の性質から、(人間を含む)存在の不在性と永遠性を表現しようとしているからである。言い換えれば、人間といういつか必ず死んでしまう儚い 不在性に、永遠性という救済が付与されていると言えよう。

 さらに園は、影絵について以下のように述べる。「今日の人々の営みは影絵のように淡くいとしい。さびしそうにゆれる灯が、影絵の輪郭線を震えさせる」(*11 )。生まれては消えていく人間という不在の儚さを灯がなくなれば消えてしまう影絵として、そして長く続く廊下は存在の永遠性として、表現されているのだ。


3-3、静寂との協調

 次に重要となる要素として取り上げたいのは、本作の全編を通して見られる静寂への執着である。

 ここで着目したいのは、前章で述べた「静寂」との類似点である。1つは、「静寂」が生じる状況との類似である。本作の舞台は、多くの災害と失敗を繰り返した後に平穏が訪れた終末的な世界である。これは、「静寂」が生じる「震災といった人間世界と自然世界の境界が崩れた混乱の後に、混乱の痕跡が未だに残る状態であっても、人間が辛うじて生存できる世界が訪れつつある」世界と大きく合致する。

 2つは「静寂」の音質の一致である。本作における静寂は、完全な静寂ではないものの、人のひそひそ声や靴音、水音といった小さな音に留められている。「静寂」がどのような音なのかについて、以下に説明を加える。


…静寂は、かならず、音がないことを意味しない。それは雑念のような余計な思想、想念や、バブル建築のような余計な装飾、仕掛けの装飾が剥がれ落ちていくところに見出されてくるものである。静寂は、完全なる無音、完全なる空白、白紙とは異なる。そして静寂は、おのずと生じない。余計なもののざわめきを取り除き、心身を空にしようとすることで感じられるようになる。(*12)


 つまり「静寂」とは、完全な無音ではなく、余計なざわめきが耳に残る中で、本質を見出そうとする姿勢から感じられるものである。

 本作のわずかに音が残る静寂とは、状況と音質において「静寂」と合致する。したがって本作の静寂は、「静寂」として、自然世界を支配してきた(つもりだった)人間世界の虚構を剥がす。それと同時に、虚構が崩れた人間世界において、微弱な存在でありながらも確かに生きる人間像を、鮮やかに立ち上がらせる。私達は、自然世界との共存空間に生きている自覚を得るために、自然の主体性が復活するところに生じる「静寂」と、それに伴う「恐怖」を受容することを必要とする。しかしながら園は、事物や存在が消えてしまうことを、存在“そのもの”の消滅と見なしていない。

 『ひそひそ星』は、壊れた人間世界に取り巻く「静寂」と同調することで、人間世界の虚飾を剥がす。その中に、人間という存在がいつかは必ず消えてしまう儚いものであっても、その存在はある時間軸のどこかに確かに息づいているという、人間世界における崩壊の「恐怖」を克服した、「静寂」の中の人間の在り方が示されるのである。



*6――園子温『園子温作品集-ひそひそ星』朝日新聞社、2016年、3頁。

*7――あらすじ作成に当たっては、公式サイト『ひそひそ星』、2022年2月7日確認、http://hisohisoboshi.jp/ 及び、園子温、同前書、3頁を参考とした。

*8――同前書、90頁。

*9――同前書、82頁。

*10――同前書、90頁。

*11――同前書、90頁。

*12――篠原雅武、『人新世の哲学-思弁的実在論以後の「人間の条件」』人文書院、2018年、223頁。

【視聴覚資料】

『ひそひそ星』(長編劇映画)、監督;園子温、シオンプロダクション、日本、2016年、100分

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高橋茉佑

筑波大学人文・文化学群比較文化学類在籍。先端文化学専攻。近現代美術や身体論など研究しています。無類のホラー映画好き。