虹をあつめろ!:自然の中で、わたしたち

我々はヒトという、生態系の一部を成している生物だ。生態系は循環している。すなわち物質が循環している。ヒトも絵画も植物も土も魚類も、巨視的に見れば同じ「物質」なのだ。かつての西洋絵画には人や神を構図の中心に置き、自然をその周りに配置する人間優位的なものが多い。しかし今回の展示では、この人>自然といった概念を排し、ヒトや自然という「物質」がこの星の大きな「循環」の中で等価であることを表現したい。(熊谷悠真、トーマス×がじゅマル)


 人間とは、一体何であるか。そのような問いに真っ向から立ち向かうこの作品は、熊谷悠真とトーマス×がじゅマルによって制作された。絵画とテラリウムで構成されたインスタレーションは、ひとつの小さな循環の様相を表している。絵画の「ヒト」は目を瞑り、あるいは光を受容しようと目を開ける。カテーテルを思わせる管は、鼻の孔を通じて自然と繋がり、水を循環させる。水面に沈められた剥き出しの麻布の絵画に対し、真四角のテラリウムは整然と佇み、そこに絵画と自然の別はない。絵画、テラリウム、ヒトや植物といった要素は無秩序に、しかし互いに依存する存在として作品を構成している。

 「自然と人間」というテーマを追求しようと始まったこの制作は、多くの解釈を経て「自然の人間」と呼べるようなひとつの世界を作り上げた。ここでは、熊谷悠真、トーマス×がじゅマル両者の場合を通じて、作品の根底にある自然観について触れたい。


自然の中で、熊谷悠真の場合

漫画作品に影響を受け、サブカルチャーの中で自然観を養ってきたという熊谷。フィクションの世界を通し、生と死、人間と自然といった本質的なテーマについて深く考えさせられたと語る。そうした思考は、作品制作にも活かされている。制作について聞くと、「キャンバスにまず絵を描くのではなくて、『こいつ(キャンバス)をどうしてやろうか』と考えてから制作しています」と笑って話してくれた。生々しい肌の質感に、うち広げられた麻布とまるで絵画然としていない彼の作品は、絵画が絵画である前に、人間が人間である前に、物質のかたまりであることを思い起こさせる。


自然の中で、トーマス×がじゅマルの場合

 地球外生命体への純粋な興味をきっかけに、大学では微生物について研究しているというトーマス×がじゅマル。「生物は大抵予測ができません。だから生物の研究は本当に難しいです」と語る彼は、大学での実習や研究を通して「思い通りにいかない」自然の面白さを実感したという。また、彼はテラリウムの歴史についても教えてくれた。19世紀ロンドンで開発されたテラリウムは意外にも長い歴史を持ち、万国博覧会でも展示されたという。テラリウムについて「自然を持ち運ぼうという発想が、いかにも人間らしいですよね」と語る彼の作品は、人間が、自然の中で主体でしか有り得ないことを指し示しているようである。


自然の中で、わたしたち

 もしかしたら、あなたはこの作品の登場人物である「ヒト」に自分自身を重ねるかもしれない。そのとき、あなたはどのように自然を理解するだろうか。自然に包まれ繋がっていることに安心感を得るか、はたまた自然の果てしなさに打ちひしがれるだろうか。自然の在り様を小さく再現し、鑑賞者を主体としてその中に立たせるこの作品は、あなたが自然を見つめるための装置としてその役割を果たすだろう。 



熊谷悠真 現代美術、特に絵画を専攻している。俗的な人間の描写や、支持体そのものを素材に見立てたメタ的な制作が特徴的。

トーマス×がじゅマル 微生物生態学を専攻している。植物をそれらを取り囲む環境ごと取り込む、流動的なテラリウムを制作する。


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